ビジネス戦記
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三上廉司

Author:三上廉司
みかみれんじ....1950年代の水瓶座生まれ。外資系ソフトウェアおよび半導体の先端企業に25年勤務後独立。技術,マーケティング,マネジメントに多様な経験を持つ。エレクトロニクス,IT技術をベースにHDL,FPGA,回路設計,教育,事業コンサルティング・サーピス。東京品川を拠点とし,コミュニティービジネスのモデルを開発,発信。



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技術立国日本-私論1

技術立国論日本という思想


天下国家を原点から再考する


我が国は四方を海に囲まれ,山岳丘陵の多い狭小たる国土に多くの国民が生活している.自然の恵みたる資源は,わが国民を豊かな生活水準のもとで養うには足らない.しかしながらバブル崩壊以来今日にいたる混迷せる時代においてもその生活水準は,全世界的な視点にたてば,依然豊かといえるだろう.


これは,我が国をとりまく環境が武力が支配する構造下ではなく,世界的な市場経済のルールに基づいた平和的な状況下にあるからといえるだろう.戦後日本は,この環境下で復興を遂げ今日の経済大国の基盤を築き上げてきたことは周知の事実である.この過程においての成長の原動力は,工業立国,加工貿易であり,これが国際収支の黒字を通して国民生活の向上に繋がっている.


資源に恵まれぬ我が国は,世界の平和的な状況下で外国から資源を輸入しこれを付加価値の高い製品に加工して輸出し外貨を獲得してきた,そしてこの外貨で世界からまざまなものを輸入し我々の生活を豊かなものにしてきたといえる.


国内の経済に目を向けて考えてみれば,第二次産業の工業生産力が生み出した二次需要がさまざまな業種に拡大し国内の産業を牽引してきた.もの作りというものは,その最終生産物を製造する過程で,必ず生産材料の需要を生み出す.ある産業の生産物は,他の産業の生産材料となり,連鎖的な製造-需要-供給構造を創出する.これが物質的付加価値の再生産と増加の工程を作り出す.


この産業構造の繁栄下において,物流需要が起こり,サービスの需要が発生し,税収が増大しこれが公共事業への原資となる.蓄えられた国民資産,企業資産はさらに金融のプロセスを介して資本市場を構築するに至る.


このプロセスを考察すれば,物質的な付加価値を産み出す製造業が経済メカニズムの原動機として機能していることが理解できる.現代は資本の有効活用,資産の運用が最重要と考えられる風潮があるが,これは成熟した資本主義国家のより高いレベルへの転化と見なすこともできる.しかしながら,資本が再生産されて増加する量より,輸入が増加する量が多くなれば国際収支は赤字となる.


戦後最長と言われる経済の継続的な成長を喜ぶ前に我々の足元をもう一度見直す必要はないだろうか.資源小国日本が世界の平和を前提として,その豊かさを保つことができる工業生産,産業の国際競争力はいかがなものだろうか.この国際競争力は,ものづくりから生まれ,さらにその根底には,多様な技術があり,この知恵の集積こそがわが国を支え,世界に貢献できるものであると考えたい.我が国には資源はないが,知恵と汗の集積によって技術を立国の礎とすることは,昔も今もそして未来も変わることなき普遍性を持っていると考える.


三上廉司



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テーマ:就活 - ジャンル:就職・お仕事

幸運な半生と次への挑戦(8)
でも、もうボクは、別の人になった。(まだ自信がないから、別の人になりたい、くらいにしておこう。)病院のベッドで動けなくなったときに、別の人生を歩もうと決めたのだ。家族のためといいつつも自分のためのハードワーキング、自分のためのラッシュライフは卒業した。過去の成功の延長線上には、次の成功も幸福もない。振り向いて、昔は良かったなどという気は毛頭ないし、そんな暇もない。でもそんなにも忙しくまた新たに自分を駆り立てる挑戦は、もっともっと違うものだ。たしかに努力はしたがこれまでの半生の成功も幸福も、運と回りのサポートの上に成り立っている。この25年で大きく成長した業界は、私を育んでくれた業界でもある。一緒に仕事をしてきた仲間たち、家族、地域、そういった今の自分を囲むすべてに自分がこれからの生き方のなかでできることは何だろうかということを考えなければいけない。親孝行する間もなく先立った父、優しくしてやれなかった女房や娘たち、時にいやな思いをさせたであろう周囲の人たち。ごめんなさいね。でもまたこれからもよろしく。

幸運な半生と次への挑戦(7)
遂に復活した。18ヶ月のトレーニングで体重が20キロ落ちた。左の五十肩も完治した。左下半身の痺れも消えた。ジムの総合体力測定では、ベスト28.8歳をたたき出した。私が始めての米国本社への出張でシアトル・タコマ空港に降り立った、不死身の体力を誇った年齢である。実は体力の復活は驚くに足らない。澄み切った頭脳のキレが戻ってきたのである。それは三十代後半ころのフィーリングである。しかも脳にはその後十年以上のタフな経験が詰め込まれている。ビジネス体力というものがあり、これが闘っていくときの基礎となる。朝は6時起床、7時に自宅からメイルチェックしながら、テレコンファレンス後に出社。スーツに身を固め、ノートPCと資料の入ったカバン、ざっと重量8キロ。これを抱えて、朝9時から5時まで、時には小走りで移動する。場合によっては、ディナー。就寝前には新技術の本を読み漁る。これをコンスタントにこなせる基礎体力をビジネス体力と呼ぶ。これがこなせなくなるとストレス化する。疲労が蓄積して走り続けることができなくなる。70%くらいはいけそうだと直感する。2005年も終わる頃である。

幸運な半生と次への挑戦(6)
私はこのようにして幸福な半生に幕をひいた。今この文を綴っている男は、別人である。幸福な成功者は新たな挑戦者として立ち上がる。2004年の1月から整理に5ヶ月を要した。15年前の引越し以来、多忙のため未整理の荷物をやっと整理しおえた。長男は中学校に上がった。まだしばしの猶予がある。精神の疲弊が著しい。気合で体を動かし、精神力で行動を統制する年代は過ぎた。よって"体"から入って、以って精神を練磨しようと思った。若き日の先進技術を事業を澄み切ったそして研ぎ澄まされた感覚で見据えられるあのフィーリングを蘇らせたかった。今はうっすらと曇っている。左の腕は五十肩で固まってしまって二年前から上がらない。左下半身はヘルニアの後、痺れが残っている。体重は標準を30キロちかくオーバーしている。2004年6月からジムに通い出す。友人の九州の会社の取締役を引き受ける。ジムでは、ゆっくりとリハビリから始める。汗を流しジャグジーでゆっくりとする時間が、たまらなく贅沢に思えた。ハードワーキングとラッシュ・ライフからこれまでをふりかえる。


幸運な半生と次への挑戦(5)
マラソンでは、もう走れないと最初に思ったときから大体その二倍くらいは走れるものだ。しかし本当に走れなくなる時というものはやってくるのである。アメリカの事業部が別会社として独立したとき、私は日本の総責任者としてオペレーションをしながら同時に日本法人の設立の準備を進めていた。しかしあるとき急に雲行きがおかしくなってきた。株主たちが設立したてのアメリカの新会社を売り渡したのである。非常に優れた技術、製品、開発陣を擁していても相応以上の値がつけば、売られるのである。結局製品ライン、開発陣と私を含むチームが選別されて別の会社に移籍となる。日本のユーザーは登録数約20,000人、代理店には製品在庫があり、統合した会社は私たちの開発したシステムを自社のシステムに組み込み、単独販売はしない方針だ。私には日本国内のクレームが集中した。このとき娘たち二人は大学受験、やがて父親が癌に倒れ帰らぬ人となった。住宅ローンもしっかりと残っている。それから数年、すべてを乗り切ったころ、もう走れなくなった自分がいた。その時というのは来るのである。若い頃の不死身を誇った男は、右耳の聴力を失い、メタボリックシンドローム直前。9月のある日、起き上がろうとしたとき激痛が走った。動けない。家内はすぐに救急車をよぶ。大の男が四人がかりで担架に載せて病院に運ぶ。10日間ベッドで全く動けない。椎間板ヘルニアである。寝返りに激痛が走る。本を読む日が続く。退院後も左下半身に痺れが残る。医者は痩せなさいとかこれは直らないかもしれないとか勝手なことを言う。五十代を前にしてプロサラリーマンの時代に幕をおろそうと思った。住宅ローンも完済し、娘たち二人は卒業して就職していた。




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